橘曙覧のように生きられたら

 橘曙覧(たちばなのあけみ)という人物がいます。正岡子規が「前に万葉あり、後に曙覧あるのみ」とまで激賞した江戸末期の歌人です。どんな人だったかは以下のウィキペディアを参照してください。

  http://ja.wikipedia.org/wiki/橘曙覧

 私はこの歌人が大好きです。この橘曙覧に『独楽吟』という歌集があります。すべて「たのしみは…」で始まる52首からなる歌集です。ちょっとだけ、ご紹介しましょう。


 たのしみは朝おきいでゝ昨日まで 無(なか)りし花の咲ける見る時
 たのしみは心にうかぶはかなごと 思ひつゞけて煙草(たばこ)すふとき
 たのしみは昼寝せしまに庭ぬらし ふりたる雨をさめてしる時
 たのしみは三人の兒どもすくすくと 大きくなれる姿みる時


 なんだか気持ちがざわつく時。こころ騒がしい時に、橘曙覧の歌を読むと、落ち着かぬこころが鎮まるのです。爽やかな一陣の風が吹くのです。
 この人は、常に自然とともにありました。生家は福井の商家です。母の実家も武生(たけふ)の豪商で、何不自由ない生活が送れた筈の人ですが、家督を弟に譲り隠棲。国学を学び、歌を詠む暮らしに入ります。あの幕末明治維新を代表する英明なる福井藩主、春嶽(しゅんがく)松平慶永公から城でのお勤めを勧められても固く辞退して、清貧の暮らしを貫いた。今なら、総理大臣から官邸に入ってくれと頼まれたような話しですが、固辞して傾かない。なかなかできませんよね。
 私はとりわけ、「たのしみは昼寝せしまに」の歌が好きですね。
 夏の午後、書物を読み倦(う)んで昼寝する。その間にさっと通り雨が降り、庭の石や木々を濡らす。起きて雨のもたらした涼しい風に吹かれ、庭を眺める。
 憧れますね、こうした暮らし。暮らしはけっして豊かではなかった。なにしろ、

 たのしみはあき米櫃(こめびつ)に米いでき 今一月はよしといふとき

 いつもは米櫃が空いているが、あと一月分は米があるぞと喜ぶような、そんな暮らしです。でも、こころは豊かだった。
 文章にせよ歌にせよ、本を読むことの効能はここにあります。どんなに昔の人であっても、その声に耳を傾け、またわが悩みを語り、ついにはこころが通じると観ずることができる。書を読むことの喜びはまさにここにあります。
 橘曙覧は、わが師です。見たことも会ったこともありませんが、わが師なのです。こういう日本人がいた。その一生が誇りに思える日本人。一歩でもこの人に近づけたらいいなあと、私はこの頃よく思うのです。